【富士山 信仰の起源と変遷】富士山信仰も歴史的背景を解説します。

富士山 歴史 信仰

突然ですが、みなさんは”富士山信仰”という言葉をご存知ですか?信仰なので、世界各地に存在する宗教のようなものを指します。そして、その信仰の対象が富士山だということです。

改めてお伝えしますが、富士山が世界遺産に登録されたのはただただ富士山が美しかったからではありません。もし、富士山の外見だけを見て世界遺産に登録されたのであれば世界自然遺産に登録されているはずだからです。

富士山信仰

上の写真は、富士山が世界遺産に登録されたことを証明している構成資産の標識です。ここにも、山そのものだけが世界遺産に認められたわけではないことが記されています。構成資産は、富士山周辺に全部で25か所あります。

富士山は”世界文化遺産”です。日本特有の文化と歴史、そして富士山という世界に誇る山が合わさって初めて、ユネスコから世界遺産だと認められたのです。

いくべぇ
このページでは、富士山が世界遺産に登録された理由の一つである、「富士山信仰の起源と変遷」について詳しくご紹介していきます。

■目次
1. 富士山信仰ってなに?(遙拝編)
2. 富士山信仰ってなに?(登拝編)
3. 富士山信仰を一般人に広めた長谷川角行とは?
4. 富士山信仰の組織「富士講」とは?
5. 富士道者を支え、上吉田を中心に栄えた「御師」とは?
6. 富士山の分身?!「富士塚」の役割とは?

富士山信仰ってなに?(遙拝編)

富士山信仰

富士山はその山容の美しさから日本一の山、名山と讃えられてきました。しかし、一方では、古来より噴火の猛威を振るう火山として人々に畏敬の念を持って恐れられ、山頂には神仏が住む霊山として、山岳信仰の対象とされてきました。繰り返す噴火を鎮めるために浅間大神(あさまのおおかみ)を祀ったのが富士山信仰の始まりとされています。

富士山信仰の原初的な形は、噴火による災いをもたらす山という恐れと、美しい山容から自然と手を合わせる、遠くから見て拝む(遙拝)山であったと考えられています。

富士山を眺望できる場所であればどこでもその対象になったと考えられますが、特に古くから遙拝地とされてきた場所があります。大塚丘(富士吉田市)山宮浅間神社(富士宮市)は、富士山の有名な遙拝地として知られています。

また、縄文時代の牛石遺跡(都留市)や千居遺跡(富士宮市)などからは、石を配置した場所から富士山を見ることができ、富士山信仰のさらに原初的なかたちがあったとも考えられています。

富士山信仰ってなに?(登拝編)

富士山信仰

平安時代末期、富士山の噴火活動が沈静化すると、仏教の僧侶が山に分け入り修行するようになります。そいて、日本古来の神と仏教の仏は一体であるという「神仏習合」の考えが生まれ、山を仏の住む世界とする仏教の思想が定着していき、独特な富士山信仰の形が作られました。

これを機に浅間大神(富士山)の本来の姿とされる大日如来をはじめ、多くの仏像が奉納さるようになりました。こうして信仰の形が、麓から富士山を拝む遙拝から、山中での修行を目的としたり富士山の護神徳を拝しながら登山すること(登拝)に変化していきました。

登山者が増えるにつれ登山道ができ、15~16世紀になると修験者に引率された衆庶の信仰登山へと拡大。富士山は、登拝する山として知られるようになり、参詣者のための宿坊ができるなど、より登りやすくなっていきました。

富士山信仰を一般人に広めた長谷川角行とは?

富士講の元となる教義をまとめあげたのが長谷川角行(1541-1646)です。

角行は戦国の動乱が静まり、人々が安心して暮らせる世の中を願って諸国の霊場へ順拝し、厳しい修行の末に「富士仙元大菩薩」から教えを得て悟りを開きました。そして、江戸で奇病が流行した際、多くの人々を救ったことが、角行の富士山信仰が広がるきっかけになったといわれています。

富士山信仰が一般的に受け入れられたのは、室町時代末期。その後の弟子たちによって受け継がれ、6世の食行身禄や村上光清らの行者の活躍により、江戸時代後半、富士講として「江戸八百八町に八百八講」といわれるほど盛んになります。身禄は角行の教えを継承しましたが、角行のような法力ではなく、正直・慈悲・勤勉といった各自の行いが富士の神に届き、おのずと世直しが実現されると、誰にも分かりやすい富士山信仰を説きました。

角行は106歳まで生きたとされ、その存在や修行の内容はなかば伝説化されています。富士山の溶岩洞窟にこもり、14㎝四方の木材の上での千日間の立行、木食行(穀物を絶つ修行)、百日の水行、北口本宮冨士浅間神社参道にある大石の上で30日間裸体での立行といった苦行が語り継がれています。

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北口本宮冨士浅間神社にある「角行の立行石」。この上に裸で30日間も立ちっぱなしだったなんて…。

富士山信仰の組織「富士講」とは?

江戸時代初期に富士山信仰開祖・長谷川角行が山中で修行を重ね祟敬を集め、のちの弟子たちの布教によって一般庶民に広まったとされています。徐々に富士山は庶民にとって身近な存在として大衆に浸透し、「講」という「富士道者の組織」を作ることで誰もが富士山を目指せるようになりました。庶民による富士山信仰「富士講」の隆盛です。

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御師旧外川家住宅にある富士道者の登山着。

富士道者は白の行衣、管笠、金剛枝姿で六根清浄を唱えながら道中し、多くは北口本宮冨士浅間神社に参り、富士山へ登拝したのです。下山した後も富士講八海巡り(泉水・山中湖・明見湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖・四尾連湖)などの修行を重ねました。

富士講の最大の行事は夏の富士登山ですが、それ以外にも月々の地元での富士講の集まり(法会)や地域の祭りがあり、一部の講員は北口本宮冨士浅間神社の神事への参加の為、富士吉田まで出向くことがありました。

明治以降は、神仏分離令や国家神道の台頭により、新興宗教・教派宗教の一部は発展しました。しかし、戦後は富士山周辺の観光地化、登山のレジャー化に伴い、宗教的な登拝は薄れていきました。

富士道者を支え、上吉田を中心に栄えた「御師」とは?

富士山信仰

御師とは「御祈祷師」が略されたものです。平安時代中期に寺院などで用いられましたが、のちに神社で祈祷を行う神職のことを御師と呼ぶようになりました。

吉田の御師は、富士山そのものを尊体として信仰するため「富士山御師・富士浅間御師」とも呼ばれ、富士山へ信仰登山する人々に自らの住宅を宿坊として提供し、登山の世話を行っていました。御師は特定の富士講と檀家契約を結んでおり、各地にある富士講は決まった御師坊に宿泊しました。

富士講は世話になる御師に対して、飲食器などの什器類や登山に必要なドテラといった様々な物を寄進しました。このように、御師とは単に参詣者の案内や宿泊の世話をするだけでなく、祈祷によって寺院や神社に参詣する人々と神仏の仲立ちをする、いわば宗教者でした。

夏の登山時期以外は、「檀家参り」として、御師は檀家である富士講のある地域を回り、祈祷やお札配りなどをおこない富士山信仰を広めました。

富士山の分身?!「富士塚」の役割とは?

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☝東京・十条の富士塚

富士山から遠く離れた江戸町では、「富士塚」と呼ばれる高さ数メートルの小さな富士山が作られました。これは入山が禁止された女性や、長旅が困難な人たちも富士参詣が出来るように富士山から溶岩を運んできては積んで、富士山に模したものが作られたものです。また塚には、各合目や烏帽子岩、小御岳神社など実際の富士山と同じ施設が設けられています。まさに富士塚は富士山の分身といえるものです。

なんせ、当時は江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日、スムーズに進めても最低は合計8日間はかかる長旅になり、現在からは想像も出来ないほどの時間と費用がかかりました。

つまり、富士塚を参拝すれば富士山に登ったのと同じご利益があるという考えが広まったのです。江戸の町だけでなく、関東・中部をはじめ、東北や近畿・中国地方など全国に広がり、各地に富士塚が築かれるようになりました。塚の築造は昭和時代初期まで続きました。

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